皆で考える心理的安全性。心理的に安全な場って何だろう? | カラビナ(その1)
カラビナでは今年6月、「心理的安全性」について深める研修を行いました。
研修には戸部の恩師である中央大学ビジネススクールの露木恵美子先生が登場。実りのある時間を過ごしました。
今回は、その模様を数回にわたり、みなさまにお届けます。
カラビナらしくフランクでいて、今後の自分たちを見つめ直した研修。その第一弾として、露木先生と戸部の対談をご覧いただきたいと思います。
よそ行きの会話より、
みんなの心の中にある感情が、職場の空気を作っている。
戸部:どうも、一般的な会社というのは、頭の中で考えたような公式的な会話が多い気がするんです。“よそ行き“というか。公式の目標やルールに則った話をすべきであるという不文律。一方で、人にとって言葉よりむしろ表情や場の空気など、身体で感じることの方が大きい。良い話をしているようでも無表情だったら、嘘っぽいし。怒られていても、「自分だから、ここまで言ってもらえる」と感じることもある…。いい職場の雰囲気ってなんだろう。今日は、先生にこの辺りのお話をしていただきたいと思っています。
露木:会社という公の場では「感じていること」を話しちゃいけない、主観的なものはよくないって思いこまされている部分はあるじゃないですか。主観より客観、というような。これは日本の教育の問題でもあると思うんだけど、すべてのモノって主観からできているんです。
現象学の世界では主観という言葉は使わず、「相互主観」という言葉が使われます。これは、「お互いの主観」ということ。例えば、カラビナでも戸部さんの主観、あるいはメンバー一人ひとりの主観があり、それが合わさって、カラビナってこういう会社だ、という像ができていく。外部の人から見ても、「カラビナって職人的な仕事をする」と思われているかもしれないし、「チームワークがいい」と思われているかもしれない。こういった、多くの人の主観が合わさったものが会社であって、まさに相互主観で成り立っているんです。
人と人との関係性の土台は、
お母さんの胎内で、へその緒で繋がっていた感覚。
露木:戸部さんがさっき言った「体で感じる」っていうのは、本当にその通り。人は生まれながらにへその緒でお母さんとつながっていたわけですよ。ということは、自分の感覚もお母さんの感覚も一緒になっちゃっているわけです。「つながっている」という感覚が土台にあり、育ててくれた人との関係で個人はできていきます。人は、本来、人とのつながり=肉体的な感覚を大切にする存在なんです。例えば、いま私も皆さんと話しながら「みんな話に乗ってるな」とか「ちょっと困惑しているな」というのは、言葉にされなくても分かります。皆さんもきっと「今日のお客さまとのミーティングはうまくいった」とか「イマイチだったな」みたいなのってあるじゃないですか。それは理屈ではないし、感じている。というか「感じちゃっている」んですよね。
こんな風に「感じる」というのがベースにあって、言葉やモノが、その上に載っているのが、私たちの生きる世界。一見理屈があるように見えても、紐解いていくと中には感覚があり、「あ!この人はここのところに引っかかっていたのか!」と気づくことはよくあるし、そこまで掘り下げないと“理解した”とまでは言えないはずです。だけど、会社の中では言葉と言葉、データとデータのやりとりをして、いわば「仕組み」で仕事が回っていると思われています。おそらく、会社という器の中で想いや感情、主観的な表現ばかりしていたら「大人らしくない」「幼稚だ」とか言われてしまうからなんでしょうね。
みんな感じているのに
エビデンスがないと動けないってことも。
戸部:本当に、今はデータがすべての答えを持っているかのように、価値が偏重している空気があります。その中で、感覚はちょっと置き去りにされたり、データやロジックより下にみられてしまう。それが閉塞感を生んでいる気もします。みんな感じているのに、客観的な事実やデータがないと動けないとか。感じていることを、ねじ伏せている社会でもありますね。でも先生から教わってみて、あらためて感覚というものを大事にする、というのが正解なのだな、と思いますね。
露木:絶対正解ですよ。人って生き残っていかないといけない、危機管理的な本能があるんです。その本能のいちばん初めに来るもの、それこそが「感覚」だと思うんです。例えば、道を歩いていて、クルマが飛び出して来たとしますよね。その時イチイチ「さあ、どうやってクルマを避けようか」だなんて考えていたら轢かれてしまいます。ドライバーにしたって同じように、「あ、人が見えた!どのタイミングでブレーキを踏んでハンドルを切ろうか」だなんて思っていたら大事故になります。
何が言いたいかって言うと、私たちは全身にいろんなセンサーのようなものを張り巡らせている。だって、背中にも目が付いているんじゃないかというような人、“剣の達人”などがいるわけですよ。人の目は前しか見えないはずなのに、背後に誰かいるって気配を感じ取って、身をこなす。だとしたら、人は視覚だけで世界を認識しているなんて、全くの嘘であって、視覚や聴覚だけでなく、本能的な感覚があって物事を把握しているってこと。よく、「肌が合わない」って人はいいます。それって、本当に文字通り「肌が合っていない」とことじゃないかしら。
まずは、「分からない」という感覚を大切にして
観察や対話をはじめてみる。
戸部:いま、心理的安全性っていう言葉がブームになり、どこか一人歩きしている気がします。実は先生は以前もお話されていましたが、例えば同じ組織の中にいても、何か「あの人は嫌だな」とか、そういう想いがあると、なかなか関係性はうまくいかない。とはいえ、無理に相手を好きになることとも違う。どういう場づくりが良いのでしょうか。
露木:そうね。いくら相手に「いいね、いいね」って言われても、「本当にいいと思っているのか」と思ってしまうこともある。一方で「こんなのダメだ」と言われても、なんかプラスの感情になることもあって不思議ですよね。「大嫌い」と言われても「大好き」って伝わってしまうこともある(笑)。
言葉の裏には、いろんなものが入っている。でも私たちは額面通りに受け取って、一喜一憂しているわけですよ。ただ、相手がどう思っているかは分からないけど、自分がどう感じたか、っていうのは確かなものです。こういうのを、我-それ関係って言うんですけど、相手のことは相手に預ければいいんです。だから、相手のことが分からなかったら、聞いてみればいい。「なんでそんなに怒っているんですか」とか「どうしてそう言うんですか」って。お客さまが相手であっても同様です。言われて分からないと思ったら分からないって言えばいい。何より、お客さまだって、何が課題なのか自分でもつかめていないことがある。だから、まず、お客さまと「わからなさ」を共有することがまず大事。そこから一緒に少しずつでもカタチにしていく努力をすることが対話なんです。そして、対話をするには、「分からない」という感覚を持つ自分に対する信頼も、相手に対する信頼も必要。感覚を否定しては対話なんて成立しませんよ。
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さて、ここからどういう議論になっていくのでしょうか。まず、今回で得た最も大きい気づきは、人は理屈や論理の前に「感覚」の生き物だということ。どうしてもビジネスの場では、客観性やデータが尊重されて、曖昧なもの、感覚的なもの、その裏にある想いみたいなものを否定されがちな気がします。でも、人と人がそこにいる以上、お互いを理解するには、「感覚のすり合わせ」って欠かせないものですよね。次回もぜひ、お楽しみに!