本当に「心理的に安全な場」って何だろう。みんなの疑問、爆発編(その3)
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本当に「心理的に安全な場」って何だろう。みんなの疑問、爆発編(その3)
2021.11.10
POSTED BY TAKASHI NAKAJIMA
#心理的に安全な場とは #ナレッジ

さて、露木先生をお迎えし、議論を続けてきた「心理的安全性」の話も、今回で第3回目を迎えました。露木先生と戸部の対談を通じて、メンバーも思うところがある様子。質疑応答のカタチで締めくくりたいと思います!

なんで、このデザインにしたの?
不思議に思ったら、背景にある想いを聞いてみること。

戸:これまで、私と先生の間での対談を中心に、「心理的安全性の高い職場って何だろう」と考えてきたわけだけど、みんなの中で質問や聞いてみたいことはあるかな。まずは、菊地さん(デザイナー)はどうかな?

菊地(以降「菊」と表記):ひとつ、気になることがありまして。それは、「心理的安全性」の話です。以前ですが、人に頼んでいたものが最初上がってきたときに、「あれ?イメージと違う…」と感じたことがあるんです。そういうときに、「NO」と否定から始めてしまったことがあったんですね。すると、相手が委縮した様子を見て、心理的安全性を確保できていない、と感じました。ただ、そういうとき、どう声をかけたらいいか、どうしても分からなくて…。

露:「心理的安全性を確保できていない」と、気が付けただけでもすごいですよ!正直、私も相手に否定から入ってしまうことだってあるものです。ただ、そういうときは、「どういう考えで作ったの?」って聞いてみたらいいんじゃないかしら。例えば、この部分を黄色にしてほしかったのに赤色で塗ってきた人がいたとしたら。その人には、自分なりの考えで塗ってきたのかもしれないし、そもそも意図が汲み取れなかったのかもしれないし、あるいは単純にさぼっていたのかも(笑)。今言ったどれが相手に当てはまるかで、今後の指摘やアドバイスだって変わりますよね。だから、どうしてこういう風になったの?って聞いてみましょうよ。

菊:そうですね…。「赤色にするなんておかしい」と、つい相手の人格的なところに踏み込んで言ってしまったことがあるんですよね。でも、たしかに赤色にしたのが、技術の問題なのか、知識の問題なのか、一度相手に確かめてみるところから始めたいと思います。

露:情報や能力が足りないとしたら、補えばいいんですよね。「こう思ったから、こうしました」と、その人にはその人にしか言えないことだってあるはず。それは、マンツーマンで対応するしかないじゃないですか。日本語って難しいから、もしかしたらその人もうまく言えなくて悔しい気持ちもあるかもしれない。でも、よく耳を傾けて、問題が例えば技術や知識にあるとしたら、配色辞典とか色彩に関する本とかを紹介して勉強してもらうとか、手立てが見えてくるんじゃないかと思いますよ。

菊:ありがとうございます。早速実践してみますね。

問題発言する人の個性も、“多様性”の一つとして、認めてもいいもの?

戸:他に質問がある人はいるかしら。では手を上げてくれている西野くん(コピーライター・ディレクター)。

西野:多様性について、すこし疑問がありまして。それは、すべての多様性が許されるものなのでしょうか。例えば、ですよ。社会的に差別的な発言など、どうしても許されないことってあるわけですよね。そういう発言をする、という個性なども含めて認めてしまってもよいのか、どうしても気になりまして…。

露:とても面白い質問だと思います。では、例えば、ひと組の夫婦がいたとします。傍から見ると、「変な関係だな…」と思うところがあったとしますよね。でも、どうでしょうか、当事者である二人が関係性やあり方に満足しているとしたら、それでいい、と思いませんか。あと、「多様性ってどこまで認められるか」という質問が出てくること自体が、日本人らしいなぁと思いました。多様性が認められない社会というものが、根強くのこっているなぁと。みんな例えば、「あの人はああいう人」という共通認識があって納得しているならそれでいいはずで、どういう多様性があってもいいはずなんです。よく、好きなことをやって、やってみたら怒られる、っていうのがあるじゃないですか。でも、「やっていい」と言った以上、言った側はある程度我慢しなきゃいけないものってあるはずなんですよね。ここまではいいけど、これ以上はダメといったら、みんなそのルールに合わせるから、それはもう「多様ではない」ということになります。まあ、カラビナで言ったら戸部さんやメンバー皆さんの許容度の問題ってことになるんですかね。

戸:そうですね、その許容度ってなかなか明文化できるものではないし、難しいものがありますよね。それでは、つぎは、匠くん(Webディレクター/若松)いってみようか。

日本人って、個性より集団主義になりがち。
もっと、個人のポテンシャルを活かせる社会にしたいなって。

若松:個人的には、一人ひとりが適材適所で能力を発揮できる組織になっていくことができたらいいな、と思うんです。その上で、その人に対する共通認識を持ち、ある程度スタンドプレーがありつつ、チームプレーができるような。日本人の働き方って、どうしても個性よりも組織・集団となりがちなんですけど、そうではなく個性やその人の持つポテンシャルが発揮できる働き方ができるといいなって思いました。

露:そうですよね。私、日本人だって相当に個性的だと思うんです。前川製作所で働いていた頃だって、一人ひとりが相当に個性的でしたし、それを全く隠していなかったんですよ。心理的安全性があるとね、みんな個性を出せます。何故かと言うと、「あいつ変だね」とか言いながらも、「まあまあ仕方ないなぁ」みたいに安心感があるから。だから、心理的安全性がないと、多様性も活かせないんですね。いくら個性的な人が集まっていても、個性を出せないなら多様性があるとは言えないじゃないですか。だから、自分のいいところも、悪いところもすべて出せて能力を発揮できることが、一見バラバラに見えても実はまとまっているベストな状態なんですよね。ただ、バラバラかどうかって、感覚的な話。バラバラな「感じ」がしてはいけないですし、ましてや一人ひとりが制度を守っているからまとまっているなんて言うのは大違い。みんな、制度を作ってそこに乗っていくことをまとまりがあると思い込んでいるんです。制度って作り込むほど個性を出せなくなる面があるんですね。だから、私は制度ってできるだけシンプルなものがいいって思っています。そのシンプルさの中に、いろんな個性を発揮できるような組織の在り方でないと、生き残っていけないと思うんですね。組織って、完成した瞬間に古くなるものだから、ネバーエンディングストーリーなわけで。やはり、その時々の状況をみんなで感じつつ、分からないながらも「こっちがいいんじゃないか」というものを言葉にして積み上げたり、時には壊したりしていくものなはずですよね。何より、自分たちの組織だから、どう動くか、どう在るかなんて他人にとやかく言われる筋合いはないし、ましてや諸外国では、大企業ではこうだからなんてどうだっていいじゃないですか。

戸:だから、自分たちなりの、能力が発揮できる組織を創って動いていければいいんですよね。では、つぎは中島くん(コピーライター・ディレクター)いってみようか。

みんなに合わせるために、前の職場で「笑顔の練習」をした記憶が・・。

中島(以降「中」と表記):私の前職での話なんですけど…。そこは、女性が多くを占めていた職場だったんですね。入社3か月くらいのとき、所属長に呼ばれて「女子の多くが、中島を怖がっている。笑顔がなく、つかみどころがない。不気味、だと。」と言われまして。だから、結構な時間を使って、笑顔の練習をしたことがあったんですね(苦笑)。ただ、これって日本の多くの会社の中で、“職場内ではこうあらねばならない”みたいなのが多くあるからだと思うのですが、先生はその辺りを感じることはございますか?

露:不思議な体験をしましたね(笑)。私の知り合いのお嬢さんは、サービス業に就いたんです。生まれつき髪色が茶色で、「黒く染めなさい」と言われたことがあったみたい。ということは、会社の要求する暗黙の期待や「こうあるべき」というものがあったということしょうね。ただ、私は、逆に男性が多い職場で、笑顔の多い女性が入ったら「ヘラヘラしてる」とか言われるのかな、と。きっと、日本人独特の文化なんでしょうね。というのも、日本人って作り笑いをするでしょ。ドイツ人はそれを嫌うみたいです。私自身、ドイツ人の前である説明をしなくてはいけない機会があって、思わず笑ったら結構怒られましたよ。世界には、「仕事やっているからいいじゃないの」という考え方もあれば、それだけではダメだ、という考え方もあるってことですよ。

中:すこし、「組織」という文脈を離れた質問をさせてください。日本人って、親の教育でかなり幼いころから「何をすべきか」と、しつけられることが多いと感じているんですね。たくさんの親の「ああしなさい、こうしなさい」あるいは「してはいけない」というものが、個人に前提となって社会に出ていくわけです。ところが、社会人になって仕事を始めると、親のしつけ通りに動いてみたら逆にダメであることもあるわけです。きっと、各個人がそれまで生きて学んできた「前提」が異なり、自分と違うものを見ると排他的になるのだと思うのですが、そういったことを先生は感じたりしますか。

露:日本って島国で、小さなコミュニティを作りながら少しずつ反映してきたわけですよね。そこでは田植えをはじめとして、協調していかなくてはいけない状況が1000年以上あったわけですよね。だからこそ、お互いの顔色をうかがい、空気を読み合い協力する文化があったんだと思います。ということは、相手にある暗黙の期待があって、その通りに動くようにする必要があって、人を縛っていたのかもしれない。そういう文化が根強い中にいると、先生や両親、上司をはじめとする人たちが期待する答えを出していかなきゃならないから、自分の意見を出そうとしても、なんだか自分でも意見が分からなくなっちゃうのよね。だから、もし、皆さんが海外とか行くと、たぶん驚くと思いますよ。思っている以上に相手に無関心。顔色ではなく、言ったことがすべて、みたいな。逆にむしろ、もっと相手の顔色や空気を読め!って思うはずですよ。ドイツでは、ロジックのある話ができないと相手にされません。だから、10個言いたいことがあったらきちんと整理して話さないといけないから、日本に帰ってきたときに楽になった気がするはず。要は国によって文化が違うわけで、それがいいとか、悪いということではないんですよね。

中:各国で文化があって、例えば日本では日本なりの「人の顔色を読んで相手の期待する答えを出す」という文化がある一方で、他国では「言ったことがすべて」になる文化があるということですね。どちらがいいや悪いではなく、ある種の一長一短みたいなものなのかなと思いました。ありがとうございます。

自分の考えを言うと否定されやすい日本。
グローバルな社会になると、もっと変わっていくのかな?

戸:それでは、最後に健太くん(コピーライター・ディレクター/鈴木健太)、お願いします。

鈴木:僕は子どもの頃から自分が思ったことを言うほうだったので、友達などから冷ややかな目で見られたり、ときには否定されることもありました。だから、帰国子女の人たちといると楽なんですよね。 彼らとは「君はこうなんだね、僕はこう思う」という会話で終われるので。まあ、グローバルな社会になりつつありますけど、こういうことってなかなか変わらないなぁと思いますし。ただ、本当に自由になったとしたら、囲まれるものがないぶん、とても責任が伴いますよね。

露:そうですね。人は人、って切り離せて考えることができたら、そんなに腹が立つこともないんだけどね。ただ、私がヨーロッパに行ってすごく面白いな、と思ったことがあるんです。実は、私の想う場の在り方みたいなのがすごくウケたことがありました。やっぱり、協働や共創が大事であるとか、彼らはそういうものを求めているみたいですね。まあ、日本にいると私も息苦しさを感じることもあるんだけど、そういう息苦しさを感じる要因が自分の中にもあると思うし、日本の外から見るとそれが新鮮なものだと感じることもあるんですよ。だから、言葉にならないような感覚的なものを少しでも言葉にしていくことが、人と働く上で大事なのかな、と。ちなみに、私の親は「ああしろ、こうしろ」とか言わなかったの。「人は人、自分は自分」という考え方が強かったみたいで。だから、勉強しろと言われたこともなくて…。だから、ある時気になって「どうして、勉強しろとか言わないの?」って聞いてみたこともあるんですよね。そしたら、「だって、あなたの考えたことだし、いいんじゃないの?」って言われまして。きっと、心理的安全性ってそういうことだと思うんです。人の決めたことや考えを否定しない、というような。なんか自分語りになってすみませんね(笑)。

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露木先生と戸部との対談、そしてカラビナメンバーと先生の質疑応答を通じて「心理的安全性」とは何だろう、という議論の模様を3回に分けてお送りしました。組織のカタチは組織の数だけあり、きちんと機能しているなら、それでいいんですよね。ただ、画一的なものを画一的なやり方で生み出すのではなく、今までにないものや、常識を覆すようなものを創造するには、お互いに尊重し、意見が飛び交う職場にならなくてはいけないと思いました。そのためには、理屈や論理を飛び越えた、実に感覚的なインスピレーションも、取り込んでいく必要があると思います。私たちはもちろんですが、多くの職場でこれから組織文化を生み出そうと考えている皆さまの一助となることを願っています。

Posted by
TAKASHI NAKAJIMA / DIRECTOR / COPYWRITER

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